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地方公共団体・全国地方自治体一覧 - 地域広報サービス

日本全国の地方公共団体・地方自治体一覧。
全国の基礎自治体・広域自治体と特別地方公共団体(広域連合組織・広域行政組合などの広域行政機関)の一覧と所在・地図、並びに各地方公共団体の概要、及び各地域の生活・ビジネス情報など。

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日本の地理

日本の総人口:127,767,994人(「国勢調査」平成17年10月1日)
日本の総面積:377,946.51km2(「国土地理院」平成21年)
※利用内訳(「総務省統計局」平成19年)
森林:66.4%/農用地:12.5%/宅地:4.9%/道路:3.5%/水面・河川・水路:3.5%/その他:9.1%

日本の海岸線:33,889km(海上保安庁)
日本の最東端:南鳥島(東京都)
日本の最西端:与那国島(沖縄県)
日本の最南端:沖ノ鳥島(東京都)
日本の最北端:択捉島(北海道)

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長野県上田市【地方公共団体・地方自治体】

上田市 (地方公共団体・全国の地方自治体)

このページは、長野県上田市の紹介です。

長野県上田市のホームページ

上田市 概要・地域の情報やトピック

上田市

上田市(うえだし)は、長野県東部(東信地方)にある市。東信地方および上小地域(じょうしょうちいき)の中心都市で、県内では長野市、松本市に次ぐ規模の都市である。千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。 都市圏は佐久地域にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷(旧・真田町)に達する。 地理 上田市は、長野県の中央からやや東北の所にあり、県庁所在地の長野市から40km、東京から190kmのところにある。市域は上田盆地全体に広がり、それを二分するように千曲川が横断している。市中心部(狭義の上田)は千曲川の河岸段丘上に位置する(標高約450m)。 主な水系:上田市の全域は、信濃川水系に属し、本流の千曲川の支流の主な水系としては以下があげられる。

creative commons(wikipedia:上田市

上田市立丸子中央小学校

上田市立丸子中央小学校(うえだしりつまるこちゅうおうしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・小県郡丸子町の町制施行当時の町域(旧小県郡丸子村)と同町の最初の編入合併相手同郡東内村を学区としている。
上田市立丸子中央小学校は1968年老朽化した小県郡丸子町立丸子小学校の校舎の建替えが小県郡丸子町議会で取上げられた時点では予定に挙がらなかったものの翌年同議会で「丸子町振興計画」が審議検討された際「小県郡丸子町立東内小学校と合併して統合町立小学校として改築する」という計画が盛り込まれたため1970年に小県郡丸子町立丸子・東内両小学校を統合して開校した学校である。しかし発足当時は部校制を実施していたため正式に開校したのは新校舎の第一期工事が完了した1971年の事である。従ってルーツは小県郡丸子町立丸子小学校と同東内小学校の2校である。

creative commons(wikipedia:上田市立丸子中央小学校

上田市立丸子北小学校

上田市立丸子北小学校(うえだしりつまるこきたしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・小県郡丸子町地区の同町2番目の編入合併相手同郡依田・長瀬2村を校区としているが編入合併から18年後後統合により発足した学校である。
上田市立丸子北小学校は上田市立丸子中央小学校とは違い、旧統合前2校のうち1校の歴史を継承していない小学校である。同校は1973年に小県郡丸子町北部3小学校(別名「旧・長瀬学校3校」)のうち小県郡丸子町立依田小学校と同長瀬小学校が統合して発足。1975年に統合校舎が完成をみて名実統合されたが統合校舎は旧両小学校用地に建設されたのではないため結果旧2校は廃校扱いとなってしまった。事実1982年に刊行された沿革誌は統合年の1973年を起点としている(「丸子北小学校十年史」)ほどだが2校がルーツであることには変わりはない。従って2校の歴史も掲載する。

creative commons(wikipedia:上田市立丸子北小学校

上田市立川西小学校

上田市立川西小学校(うえだしりつかわにししょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の小県郡川西村の越戸・浦野地区を除く全域を学区としている。
1973年4月1日に小県郡川西村が上田市に合併した際村立の1中3小(川西・浦里・室賀・小泉)はそのまま上田市立となった。1中3小の所在地は、
上田市立川西中学校→上田市大字仁古田
上田市立浦里小学校→上田市大字浦野
上田市立室賀小学校→上田市大字上室賀
上田市立小泉小学校→上田市大字小泉(町地区)
(※ いずれも当時の地番)
であったが合併当時から問題となっていた過疎化が1980年以降から顕著になり特に上田市立室賀小学校の学区である旧小県郡室賀村地区は著しかった。そこで1988年に上田市立室賀小学校と上田市立小泉小学校を統合、新校舎を上田市立川西中学校の校舎のあった仁古田に移す事となったため上田市立浦里小学校の学区であった仁古田を編入して新学校、上田市立川西小学校が発足したのである(ちなみに旧小泉小学校校舎は上田市立第六中学校校舎として当てられたが旧室賀小学校校舎は廃止された)。従って当校は上田市立室賀小学校と上田市立小泉小学校をルーツとする。

creative commons(wikipedia:上田市立川西小学校

上田市立川辺小学校

現在の上田市立川辺小学校は1959年に上田市立川辺小中学校と上田市小県郡川西村組合立泉田小中学校の両中学校が統合して上田市立第四中学校が開校した際川辺小学校と泉田小学校の上田市残存部南部が統合して再発足したものである。従ってルーツは上記2校である。
1889年4月1日に小県郡川辺村が発足した際「中之条学校」の上田原分教場が分離独立し「小泉学校」の学区の一部を編入して村立川辺尋常小学校として発足しているがルーツは1872年、学制頒布の翌年に小県郡上田原・築地・下之条・神畑の4村を学区として開校した「弘教学校」である。同校は1886年に上田市立城下小学校の前身に当たる「亮功学校」・「若宮学校」と合併して「中之条学校」の上田原分教場となるがこの際築地村が分離して「小泉学校」の学区となった。そして4村が合併して小県郡川辺村が合併すると「中之条学校」は解体、上田原分教場は「小泉学校」の学区も加えて村立川辺尋常小学校として再独立している。1895年には高等科の分置により村立川辺尋常高等小学校と改称している。

creative commons(wikipedia:上田市立川辺小学校

上田市立武石小学校

上田市立武石小学校(うえだしりつたけししょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・小県郡武石村全域を学区としているが1886年~1968年までは西部地方に分校を設けていた。
上田市立武石小学校は旧・小県郡武石村一帯を学区としているが現在のように1村→1地区1校となったのは1968年の事。それ以前は西部が美ヶ原に代表される山間地であるという事情から分校が設けられていた。また、旧・小県郡武石村一帯は1889年以前は武石郷8ヶ村と称されていたため1874年の開校から1905年まで分裂・統合を繰り返していた。
1874年、学制発布から2年後武石郷8ヶ村のうち下武石・小沢根2村を除く6村を学区とする「麗正学校」が開校しまもなく残りの2村を学区とする「化風学校」が開校するが翌年「麗正学校」に吸収合併される。1882年上下本入2村が独立し「本入学校」が開校。翌年には沖・鳥屋2村が独立し「沖鳥屋学校」が開校。上下武石・小沢根・余里4村のみとなった「麗正学校」は「武石学校」と改称する。1886年に「武石学校」は「沖鳥屋学校」・「本入学校」を吸収合併。旧本入を支校とし旧沖鳥屋を統合。築地原・余里に分教場を設置した。1889年に武石郷8ヶ村は合併し小県郡武石村が発足。村立尋常小学校武石学校と改称したが1892年に築地原分教場が小県郡武石村立築地原尋常小学校として独立。村立尋常小学校武石学校は村立武石尋常小学校と改称し本入→権現・余里の2分教場が設置されて小県郡武石村の小学校は2本校2分教場制となった。さらに1895年には1890年に小県郡立高等小学校の沖分教場として開校した小県郡武石村・大門村・長窪古町・長久保新町2町2村組合立武石長窪高等小学校が独立したため3本校2分教場制と当時の原則である1自治体1尋常高等小学校制が当てはまらない状態となっていた。

creative commons(wikipedia:上田市立武石小学校

上田市立西内小学校

上田市立西内小学校(うえだしりつにしうちしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・小県郡丸子町地区で同町の最初の編入合併相手小県郡東内・西内村のうち西内村を学区としている。
上田市立西内小学校は1886年の「小学校令」発布により当時の小県郡内村郷3村(東内・西内・平井村)の5小学校が統合して発足した「内村学校」がルーツであるが当校に絞ると1873年、学制頒布の翌年に高梨・平井・荻窪の3村を学区とする「彝倫学校」として開校したのがルーツである。同校は1875年高梨村が独立し「研性学校」を開校させ、1877年には小県郡東内村となった荻窪村が独立して「荻窪学校」を開校させた。1876年に高梨村と合併して西内村平井区となった3年後「(初代)内村学校」と改称するが翌年旧に服し1882年に独立して平井村となると「平井学校」と改称している。そして「研性学校」・「平井学校」は現在の上田市立丸子中央小学校の前身である「荻窪学校」・「和子学校」・「龍口学校」と合併し「(2代)内村学校」が発足するが1889年に小県郡西内村が平井村を編入発足すると解体。西内村分は村立西内尋常小学校として発足した。

creative commons(wikipedia:上田市立西内小学校

上田市立塩田西小学校

上田市立塩田西小学校(うえだしりつしおだにししょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の小県郡塩田町 (長野県) 塩田町の別所・西塩田地籍、中塩田地籍の八木沢地区を学区としている。
上田市立塩田西小学校は過疎による児童数減少に悩んでいた上田市立西塩田小学校と上田市立別所小学校の統合により開校した。上田市立中塩田小学校の学区だった八木沢地籍を編入して1996年に開校したが同校の学区は1873年、学制頒布の翌年に開校した「昇高学校」の学区であった。この時点では小県郡新町・八木沢・東西両前山・手塚・山田・野倉・別所の計1町7村を学区としていたがわずか1年で分割して消滅。1886年に統合により「(2代)別所学校」を発足させるが市町村制の実施により3年で再び消滅していた。(分割・併合・再分割後は以下に記す。)同校は「別所学校」が一部(十人地籍、旧小県郡十人村)を加え107年ぶりに復活したものといえる。

creative commons(wikipedia:上田市立塩田西小学校

上田市立城下小学校

上田市立城下小学校(うえだしりつしろしたしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の最初の編入合併相手小県郡城下村の御所・諏訪形・小牧地区を学区としているが編入が戦前であったため1市1尋常高等小学校時代に部校だった歴史を持つ。
上田市立城下小学校は「中之条学校」が1889年4月1日の市町村制施行により小県郡城下村と川辺村が成立した際に分立し城下村分を学区とする村立城下尋常小学校として開校しているがそのルーツは1872年の学制頒布の翌年に開校した「亮功学校」である。同校は小県郡中之城村・御所村・諏訪形村・小牧村を学区として開校したが2年後諏訪形村と小牧村が独立して「諏訪形学校」を開校させる。(※「諏訪形学校」は1878年に智仁学校、1882年には「若宮学校」と改称している。)1886年に「亮功学校」・「若宮学校」、小県郡下之条村・築地村・上田原村・神畑村を学区とする「弘教学校」が合併し「中之条学校」が成立(※築地村は「小泉学校」へ学区変更)。本校を旧亮功学校に置き旧若宮学校には諏訪形分教場が、旧弘教学校には上田原分教場が設置された。

creative commons(wikipedia:上田市立城下小学校

上田市立東塩田小学校

上田市立東塩田小学校(うえだしりつひがししおだしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の小県郡塩田町の東部一帯を学区としている。
上田市立東塩田小学校は小県郡東塩田村時代の1949年に隣接していた小県郡富士山村を編入合併した際富士山小学校を統合して発足したのが起源である(所在地は旧東塩田小中学校校舎、旧富士山小中学校校舎は両小に併設していた東塩田・富士山両中学校が統合して東塩田中学校となった際単独の校舎に当てられたが1958年統合により小県郡塩田町 (長野県) 塩田町立塩田中学校(現:上田市立塩田中学校)が開校したのに伴い廃校された。)が、ルーツは学制頒布の翌年、1873年に遡る。
この年のちの小県郡富士山村となる奈良尾・町屋2村とのちの同郡東塩田村となる平井寺・鈴子・石神・柳沢4村と下之郷のうち下之郷を除く4村を学区とする「習成学校」が開校。翌年上田市立中塩田小学校の前身「盈進学校」から下之郷から分離し「載明学校」が開校。1878年には4年前発足の富士山村が分離し「富士山学校」を開校させる。1884年には「習成学校」と「載明学校」が合併し「塩田学校」と改称。1886年に両校は合併し「古安曽学校」を開校させる。現在の学区はこの時期に完成しているが1889年に小県郡東塩田村が市町村制により発足した際富士山村は加わらずそのまま発足。結果そのまま村立東塩田尋常小学校とならず解体。村立東塩田尋常小学校・村立富士山尋常小学校となり1947年の学制改革に至ったのである。

creative commons(wikipedia:上田市立東塩田小学校

上田市立神川小学校

上田市立神川小学校(うえだしりつかんがわしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の小県郡神川村地区全域を学区としている。
上田市立神川小学校は1956年9月30日に上田市に編入合併された小県郡神川村全域を学区としているが同村は1889年4月1日の市町村制実施による発足前は西部が現在の上田市、東部が現在の東御市にあたる地域に近いためしばらくは統一性が取れなかった。その結果が村立神川尋常小学校発足→高等科分置により村立神川尋常高等小学校改称後も続いた2校並存時代である。
1873年、学制頒布の翌年に小県郡国分村にのちの神川村の西部一帯の村々を学区とする「古府学校」が、同郡上青木村に東部一帯の大半を学区とする「知新学校」が開校。後者は翌年「啓明学校」と名称変更している。小県郡大屋村は東御市立田中小学校の前身である「進善学校」→「風声学校」の学区になっていた。1886年に両校は上田市立豊殿小学校の前身となる「修道学校」(この際上田市立本原小学校の前身である「育英学校」から一部が分離)と合併、さらに「風声学校」の学区となっていた大屋村を編入して「芳田学校」が発足。前者は国分分教場、後者は蒼久保分教場となった。そして小県郡神川村発足により解体し両分教場は村立神川尋常小学校となるが本校は旧蒼久保分教場に設置、旧国分分教場には支校が設置されたが国分側は支校扱いされた事に不満を持っていた。そのため高等科分置により村立神川尋常高等小学校が発足すると国分側も本校扱いとなり旧本校は「第一教場」、旧国分支校は「第二教場」と変更する事に。しかしいざこざがこのまま続いてはまずいと村側は判断したのだろう。発足から8年経った1897年に村役場所在地に近い現在地に校舎を新築し所在地を統一。村の中央に位置した事からこれを機にいざこざが解消された。

creative commons(wikipedia:上田市立神川小学校

上田市立高等学校

『長野県上田千曲高等学校』より : 長野県上田千曲高等学校(ながのけんうえだちくまこうとうがっこう)は、長野県の上田市にある公立高校である。 略称は、「千曲(ちくま)」で、文化祭は「千曲祭」と称する。 沿革 1917年 - 町立上田女子実業補習学校として開校。 1920年4月1日 - 長野県上田実科高等女学校に改称。 1942年 - 上田市立商工学校が開校。商業科、建築科を設置。 1943年4月 - 長野県上田実科高等女学校が長野県上田市立高等女学校に改称。上田市立商工学校に機械科を設置。 1944年 - 上田市立商工学校の商業科を機械科に転科。 1945年4月 - 上田市立商工学校を長野県上田工業学校に改称。 1946年4月 - 長野県上田工業学校を長野県上田商工学校に改称。商業科、建築科、機械科を設置。 1947年4月1日 - 学制改革第1段階(6・3制)実施。長野県上田市立高等女学校と上田市立商工学校に併設中学校が設置される。それぞれの併設中学校は合併→県立移管後も上田市立で通した。 1948年4月1日 - 学制改革第2段階(6・3・3・4制)実施により、長野県上田市立高等女学校と上田市立商工学校を合併し、上田市立高等学校となる。

creative commons(wikipedia:上田市立高等学校

上田市立長小学校

上田市立長小学校(うえだしりつおさしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・小県郡真田町の神川上流流域一帯、長地区を学区としている。小県郡長村時代は菅平高原も学区に含めていたが真田町成立後上田市立菅平小中学校 菅平小学校として分離。従って菅平口付近が北限となっている。
上田市立長小学校は1873年、学制頒布の翌年に小県郡の神川上流地域4村(横尾・真田・横沢・大日向)を学区とする「養正学校」として開校したのがルーツである。1874年に「成始学校」→「水哉学校」と2度改称するが菅平高原を抱える土地柄からか1878年に旧横尾村(1876年に4村の合併で小県郡長村となる。)が分離し「横尾学校」が開校された。
1882年、「水哉学校」は「真田学校」と改称。1886年には「横尾学校」を合併し横尾・大日向に分教場を設置。1889年小県郡長村が合併を経ずに発足すると1本校・2分教場の長村立真田尋常小学校が発足する。1895年には高等科分置により村立長尋常高等小学校と改称し1899年には菅平に分教場が設置されている。

creative commons(wikipedia:上田市立長小学校

上田市立浦里小学校

上田市立浦里小学校(うえだしりつうらさとしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の小県郡川西村浦里地区の浦野・越戸地籍を校区としているが小県郡浦里村時代は現在の小県郡青木村の当郷地籍も校区とし上田市立川西小学校発足までは仁古田・岡地籍も校区としていた。
上田市浦里小学校のルーツは1873年開校の「養正学校」に遡る。同校は小県郡馬越(のちの浦野町)・仁古田・岡の3村と福田・吉田の2村(翌年分離し「通儀学校」を開校させる。現在の上田市立川辺小学校の校区)を校区として開校。1886年に青木村立青木小学校の前身である「�た小県郡当郷村、同じく前身で左記から分離(1874年)した「協義学校」から分離した同郡越戸村を校区に加えのちの小県郡浦里村の村々を校区とする「浦野学校」が発足した。そして1889年村々が合併して小県郡浦里村が発足するとそのまま村立浦里尋常小学校と改称している。

creative commons(wikipedia:上田市立浦里小学校

上田市立清明小学校

上田市立清明小学校(うえだしりつせいめいしょうがっこう)は長野県上田市にある小学校。旧・上田市地区で市制施行当時の市街地地域を学区としている。
江戸時代文化文政期の上田藩藩主(藤井)松平氏が開いた藩校「明倫堂」と町人地におかれた寺子屋がルーツといわれている。1872年の学制頒布により「明倫堂」が松平学校として、町人地の寺子屋が上田街学校として発足し1886年には1889年の市町村制発足時の上田町域(※一部は小県郡神科村へ分離)の小学校が合併し上田学校が発足すると旧松平学校が女子校として、旧上田街学校が男子校となる。
1889年に町立上田尋常小学校と改称。1895年に小県郡立高等小学校の廃止により高等科併設で町立上田尋常高等小学校となるが1899年に女子校が町立上田女子尋常高等小学校として独立。男子のみとなった同校は1901年に町立上田男子尋常高等小学校と改称し同校の本校となった。1918年の市制施行、1921年の小県郡城下村編入で学校再編が必要となり翌1922年に上田市立尋常高等小学校が発足。旧女子校に尋常小学校本校・高等小学校が設置され旧男子本校に尋常小学校南校が設置された。

creative commons(wikipedia:上田市立清明小学校

上田市立塩川小学校

上田市立塩川小学校(うえだしりつしおがわしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・小県郡丸子町地区で同町の最後の編入合併相手塩川村全域と旧小県郡東部町(現:東御市)から編入した地域を校区としている。
1965年時点での小県郡丸子町の小学校(すべて町立)は丸子・東内・西内・依田・長瀬・塩川の6校。この内依田以降の3校は北部地域にあったため丸子町北部3校。あるいは1888年に存在していた「長瀬学校」から分れ出たため「旧長瀬学校3校」と呼ばれていたそうだが依田と長瀬は1973年に統合されて廃校、現在の上田市立丸子北小学校が設置された。従って北部3校では唯一統合されなかった学校である。
1873年、学制頒布の翌年に小県郡塩川村を校区とする「塩川学校」として開校。しかし当時の塩川村は1889年の発足以前で南部は同郡藤原田村として独立していたため校区に加えられなかった。1874年に藤原田村が「大同学校」から独立し「明敬学校」を開校。1878年に「明敬学校」を吸収合併するが1882年に再び独立し「藤原田学校」を開校させる。

creative commons(wikipedia:上田市立塩川小学校

上田市立神科小学校

上田市立神科小学校(うえだしりつかみしなしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の小県郡神科村地区全域を学区としている。
上田市立神科小学校は1923年発行の「小県郡史」よると小県郡伊勢山・金剛寺2村を学区とする「成逢学校」として開校したのをルーツとしているが上田市が1999年に発行した「上田市誌」によると小県郡伊勢山・金剛寺・長島・大久保4村を学区とする「愛日学校」として開校したのをルーツとしているとある。しかしのちの小県郡神科村の村域となる地区には「明誠学校」(同郡新屋・野竹2村)、「進信学校」(同郡笹井・岩門2村)が開校しているが一部を「愛日学校」に分離し合併し「求新学校」と改称(1875年)した後上田市立神川小学校の前身である「啓明学校」に合併(1876年)されているのでここでは「成逢学校」を起点とする事にした。

creative commons(wikipedia:上田市立神科小学校

上田市立傍陽小学校

上田市立傍陽小学校(うえだしりつそえひしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・小県郡真田町地区の神川支流洗馬川流域一帯、傍陽地区を学区としている。
1872年に学制が発布されると2年後までに日本各地に小学校が開校しているが開校した当時は独自に校舎を建てるというケースはまれで大体社寺・民家・旧藩校・寺子屋を仮校舎として開校しているが上田市立傍陽小学校もご多分に漏れず1873年に「金縄学校」として開校した当時は社寺を校舎として定めた。しかし定めたところが真田氏にゆかりが深い実相院であったため1882年の改称(「傍陽学校」)→1886年の「小学校令」発布による固定化→1889年の小県郡傍陽村発足による改称(村立傍陽尋常小学校)→1895年の高等科分置による改称(村立傍陽尋常高等小学校)と歴史を重ねても定めたままであった。普通社寺を仮校舎と定めた学校は大体「小学校令」の頃までに独自の校舎を建築して移転しているものだが実相院に仮住まいし続けていた事はいかに学校関係者のみならず地域全体に当寺が親しまれているという証といえるがいつまでも仮住まいというわけにはいかないため1900年に現在地に独立校舎を建設して移転した。以来校舎の改築があったものの不変である。

creative commons(wikipedia:上田市立傍陽小学校

上田市立西小学校

上田市立西小学校(うえだしりつにししょうがっこう)は長野県上田市にある小学校。旧・上田市地区の市街地西部・旧・小県郡常磐城村の地域を学区としている。
上田市街地の西部は江戸時代は上田城下町から独立した村々であり廃藩置県で小県郡上田町になってからも変わらなかった。その結果当校は上田市街地を学区とする学校で唯一独立して開校した歴史を持っている。1872年の学制頒布により市街地の西部には小県郡西脇村に「惟明学校」が設置される事となった。これがルーツとなっている。
同校は小県郡西脇村・諏訪部村・生塚村(※ 1876年に合併し常磐城村)・秋和村(※ 1889年4月1日に上下塩尻村と合併し塩尻村)を学区として開校したが1875年秋和村が独立し「秋和学校」を設置したため離脱し諏訪部村へ移転する。1886年に松平学校・上田街学校・進新学校・常入学校と合併し上田学校となったため同校の常磐城支校となる。1889年4月1日に小県郡常磐城村が上田町に合併されると町立上田尋常小学校の常磐城分教場と改称。1895年の高等科分置で町立上田尋常高等小学校の分教場に、1899年に本校の女子校が町立上田女子尋常小学校として独立すると男子のみの分教場となり1902年には町立上田男子尋常高等小学校の分教場となり1904年には日露戦争の影響で廃止。男子も本校への通学を余儀なくされた。しかし1906年に再興されて男子のみの通学が再開。1913年には現在地に移転し町立上田男子尋常高等小学校の西校となる。

creative commons(wikipedia:上田市立西小学校

上田市立中塩田小学校

上田市立中塩田小学校(うえだしりつなかしおだしょうがっこう)は長野県上田市の小学校。旧・上田市地区の小県郡塩田町の中心部中塩田地籍の八木沢地区を除く全域を学区としている。
上田市立中塩田小学校は1873年、学制頒布の翌年に「盈進学校」として開校したのがルーツとされているが同校は小県郡塩田町4小学校のうち一度も統合経験をもたずに歴史を重ねてきた唯一の学校である。(上田市立東塩田小学校は塩田町発足以前に統合、上田市立塩田西小学校は上田市合併後に統合。)学校100年史のタイトルに「盈進百年」とつけていたぐらいであるからいかに歴史が途切れなかったかという証明である。
「盈進学校」は小県郡下之郷・五加・本郷・小島・保野・舞田・中野・十人の1郷6村を学区として発足したがまもなく下之郷が「載明学校」を開校させて分離。1886年に残る6村を学区とした「本郷学校」と改称。1889年の市町村制実施により十人村が西塩田村へ、残る5村が同郡八木沢村と合併して中塩田村を発足させると「別所学校」と学区交換。(「別所学校」は村立別所尋常小学校・村立西塩田尋常小学校に分割されて発足する。)村立中塩田尋常小学校と改称する。

creative commons(wikipedia:上田市立中塩田小学校

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